3. エジプト関連のDNA




  エジプト文明は、周りの国々のみならず世界的にも最も影響を与えてきたので、どのような経緯かを調べる価値がある。



  (1) エジプトのミイラのY染色体ハプロタイプ:


  ・ ツタンカーメン(BC1333-1324): R1b1a2
      ・・・ なんと、エジプトでありながら白人系、しかも 西ヨーロッパ系(R1b)である。( ex) アブラハム・リンカーン R1b1a2、 ブルボン家 R1b1a2a1a1c*) ツタンカーメンは、エジプト第18王朝(1570-1293)で、10歳で即位、165cm・華奢な体形、130本の杖が副葬されていたほどに虚弱で足が弱かった。ヒッタイトに勝利したので、戦略家ではあった。19歳で死亡。この白人家系は彼で断絶し、その後は アフリカに多い E1b1a系統の大臣・将軍らに王位が引き継がれた。 王家の谷では、ツタンカーメンの墓だけが(弱小だったので、)荒らされずに残っていた。
  ツタンカーメンの父、アメンホテプ4世(= アメン神官らとの勢力争いから アクエン・アテンとも名乗った。アテン=太陽神)も、Y染色体DNAの父系遺伝の性質から 同じ R1b1a2 だったと予想されている。彼の像は、全くのヨーロッパ系の顔かたちをしている。 ただし、数少ない白人どおしの近親交配から、遺伝的疾患が多く、遺体の背骨の変形、足指の欠損、臓器の疾患などが見られる。

  * 頭が長く伸びているので、”宇宙人”という話があるがこれはうそで、たとえば現在でも コンゴのマングベツ部族の 幼児の”頭蓋緊縛”の風習が行われている。この風習は他に、ペルーのナスカや マルタ島にも見られる。頭を緊縛する装具を身に付けたまま埋葬された子供の遺骨が、南米では多数発掘されている。
  アクエン・アテンはエジプトでは珍しい白人で、精悍な顔をしていた(腹は出ている)ところから、本当に”宇宙人”と思われていたかもしれない。

  ・ ラムセス3世(〜BC1155): E1b1a
      ・・・ 第20王朝(1185-1070)の エジプト新王朝の最後の最盛期のファラオ。 ハム → ミツライム(エジプト人) 典型的な アフリカ系 E系統の E1b1aで、これは オバマ氏と同じ。 (cf. E1b1b は 北アフリカ、南ヨーロッパ系)
     




  (2) ヨセフから モーセの出エジプトまでの歴史:


  ヨセフが最終的にエジプトの宰相(=特に君主に任ぜられて宮廷で国政を補佐する者)になることができた大きな理由の一つには、当時のエジプトが ナイル川下流の大三角州地帯の第15王朝のヒクソス(BC1663-1555、首都は アヴァリス =(現在の) テル・アル・ダバア)が、シリア、パレスチナなどの 非エジプト人のアジア系が支配していた背景がある。(ただしエジプトの慣習を尊重) ヨセフは、この大ヒクソスの初期の時代に、19歳で奴隷にされて売られ、獄に入れられ、そしてファラオの夢の解き明かしで30歳で総理大臣に任ぜられた。 ナイル川上流のテーベを中心とした第17王朝(BC1663-1570)は、南北朝として並行して対立していた。 7年の大豊作の後の7年の大飢饉の時に、ヨセフはライバルの第17王朝にも穀物を売ったと思われる。


  後のモーセの時代は、 エジプトで唯一 最古のイスラエル民族を記述したメルエンプタハ(英語読みでメルネプタ)石碑(イスラエル石碑)の記述から、ヘブル人の出エジプトを BC1207年とし、これをあらゆる聖書年代の基準とすることができる。(メルネプタ石碑(Merneptah Stele)、 解読ページヒエログリフ) イスラエルについて書いてある内容(石碑の下の方にある)は、

    ”イスラエルは荒廃し、その種はもはや無い。パレスチナはエジプトのための寡婦となった。”

であるが、これはエジプト側から見た歴史の”改ざん”であり、実際は、出エジプトのとき紅海が元に戻った時、メルネプタは彼の軍隊と共に溺死したはずである。このことは、彼の死体が1ヶ月以上海水にさらされて屍蝋(しろう)化して、それをミイラにしたので 彼のミイラだけが、体全体、特に口の周りが白くなっていることによって裏付けられる。( → ヨセフの時のエジプト王
  周りの国々に対し、全体的に内容がエジプトに都合の良いように改ざんされて書かれたこの石碑は、出エジプトの7年後のBC1200年にテーベに建てられたという。

  


  この エジプト考古学に基づくBC1207年出エジプトの基準により、聖書が記述する年代と合わせて、すべての年代が明らかになる。( → 下に全歴史7000年説の計算 、 伝統的なユダヤ暦は100年くらいずれている)


  エジプト滞留のイスラエル人たちの増え方は、

  @ ヤコブたち(67人*)が ベエルシェバから ゴシェンの地(ラメセスの地)へ移住したのが、 BC1207 + 430 = BC1637  この時ヨセフは 38、9歳? これから逆算すると、ヨセフが売られたのが BC1675年前後となり、彼が獄にいる間に 第15王朝のヒクソス王朝(BC1663-1555)が成立したことになる。ヨセフを宰相に任命したのが 最初の王 サイティス(サリティス by.ヨセフォス)であり、ナイル川デルタ東部を占領し、メンフィス、パレスチナまで直轄支配した王ということになる。
     * この時、ルベン5、シメオン7、レビ4、ユダ6、イッサカル5、ゼブルン4、ガド8、アシェル7、ヨセフ3、ベミヤミン11、ダン2、ナフタリ5 の (妻は別にして)計67人 (創世記46:8−)

  A ヒクソスを滅ぼし、エジプトを再統一した第18王朝(新王朝の始まり)の最初の王 イアフメス(1570-1546)の最初の年に、ヘブル人は250人だった。

  B 第18王朝最後の王 ホルエムヘブ(1321-1293)の最初の年には、ヘブル人は 4万8千人にまで増えていた。 彼は、カナンのシリア遠征に失敗し、ヘブル人の勢いを恐れていた。

  C 第19王朝のラムセス2世(1279-1212)の時に、古王朝最大の勢力となった。そして、次の メルエンプタハ(1212-1202?)の時は、BC1207年に、モーセが率いる出エジプトの民は (20歳以上の)男だけで60万人にもなっていた。(出エジプト12:37、民数記1:46)
  このメルエンプタハこそが、呪法師らを使って神とモーセに逆らい、極端にかたくなになったファラオ(パロ)である。この当時の呪法師たちは、本当にしるしを行う きわめて霊的な者たちだった。 

  これだけ多くの民が一度にエジプトから出たので、エジプトは経済が大打撃を受け、建設事業は滞り、内政も混乱した。次はアメンメス(1202?-1199)、セティ(1199-1193)、サプタハ(1193-1187)など、若い王たちによる短い治世が続いた。




  (3) ヨセフの妻との関係:


  エジプトのイウヌ(ン)(古名) → 「オン」 → (後の)ヘリオポリス(太陽の町)はカイロの近くにある町。
  「ポティ・フェラ」の ポティ = 小さい星で、”小さい星の家”となる。  cf. ”ファラオ”=大きな家  ポティ・フェラ(ポテ・ペラ)は、星派の祭司
  彼の娘の「アセナテ」は、イシス(アセ)のもの(所有、ナテ)という意味。

  ヨセフのエジプト名: 「ザフナテ・パネア(ツァフェナテ・パアネハ)」(創世記41:45)とは、
  「ザ」(頭、J(ジャ)) + 「フ」(he、彼) + 「ナテ」(nht ナハテ、力強い勇者) ・ 「パ」(pa、男) + 「アナホ」(anh、命にあふれた) より、 ”力強き勇者、命あふれた男” という意味。主に聞き従い、聖霊様に満たされた者は、が共におられ、力ある者とされる。 (→ ヨセフとアセナテの名前
  ・ 日本の国際名のJapanは、Jacob(ヤコブ)の頭文字と、この ヨセフのエジプト名 Panea(パネア)の頭文字を取ったものという説がある?(これはうそっぽい)

   


  ヨセフの妻 アセナテがどのような人種であるかは定かでないが、時の王朝ヒクソスが 非エジプト人の支配層のため、その祭司もエジプト系(E系統)である必要性は無いと考えられる。(一般民衆はエジプト人) ヨセフの子孫、後に北イスラエルの盟主となる エフライム、および その兄弟の部族 マナセがどのような性格の者となったかは、ヤコブとモーセの祝福の度合いを見て想像できる。(創世記49:22−26、 申命記33:13−17) (cf. ハム系の E系統は、カナンのみならず、全般的にノアの のろいが関わっている。(創世記9:25) また、聖絶の民(申命記7:1−5)) アラム人のような、同族に近い セム系(J系統)だろうとも思われる。
  妻からのE系統が突然変異でこの時 男子のY染色体DNAに入った、ということは無理がある。 D系統と E系統が分離した時期は、その遺伝距離の長さから、かなり初期、ノアたちが箱舟を出てまもなくだからである。



    ・・・・  こっち来て見イラ (*^∇^)ノ”



   ●  出エジプトの年代計算(再):

  考古学な年代特定は、誤差がつき物である。 そこで、「ヨベルの年」について、土地を無条件で返却するものだから、実際に起こったイスラエルの土地関係の著しい出来事を基準に考える。
  1967年6月、イスラエルが六日間戦争でエルサレムを奪還し、ヨルダン川西岸、ガザ、シナイ半島、ゴラン高原を大きく占領した年(領土4倍) を、ヨベルの年(1966年9月末〜1967年9月末)と仮定。 また、その49年前の 1917年(大正6、11月・英 パレスチナにユダヤ人国家を約束(バルフォア宣言)。 すると、その前年(1965年9月末−)は、カナン定住から起算した 49の倍数の安息年となる。
  出エジプト(律法以前の”ヨベルの年 元年”)も、カナン定住(1回目のヨベル)も、土地関係の著しい出来事と言える。


  ヨシュア記14:10より、「イスラエルが荒野を歩いた45年間、 ・・・ 今 カレブは85歳。」 また、カレブが 40歳の時に、モーセがカナンの地の偵察に遣わした。(14:7)
  出エジプト − 5年・荒野 − 偵察(カレブ40歳)− 40年・荒野 − 5年・カナンの地獲得(カレブ85歳) より、 出エジプトから 49年後に 割り当ての地に定住 ということになる。

  7 × 7 = 49年の整数倍 = 49 × 68 = 3332、 3332 − 1965  = BC1367年  カナン定住開始年。 ∴ 出エジプト年 = 1367 + 49 = BC1416年

  これは、上記の エジプト考古学に基づく年代(1207年)より = 209年 もずれている

  結局、ヨベルの年は、 1965 + 1 = 1966年9月末〜1967年9月末。 その次は、 2015年9月23日(贖いの日)〜2016年9月末

  (* 以上は、米国メシヤニックジューのラビ、ジョナサン・カーン師の説。 彼は、BC1416年にイスラエルがカナンの地に定着した時と仮定している。 出エジプトの年代決定には、 ユダヤ暦に基づく古いほうと、 エジプト考古学に基づく新しいほう2種類が存在する。)


  歴史的に一般に知られている年代として、
   サウル −BC1010、  ダビデ 生BC1040、 在位 1000−961、  ソロモン 生 BC1011、 在位 971−931、
   定住〜サウルまでが 士師(=Judge、さばきつかさ: 大士師 6人(オテニエル、エフデ、デボラ、ギデオン、エフタ、サムソン)、 小士師 6人(シャムガル、トラ、ヤイル、イブツァン、エロン、アブドン))の時代。


  ● 士師記の記述より、
  ・・・ (アラム人の奴隷)8年(士師3:8)、 オテニエル 40年(3:11)、 (モアブ人)18年(3:14)、 エフデ+シャムガル 80年(3:30、31)、 (カナン人)20年(4:3)、 デボラ+バラク 40年(5:31)、 (ミデヤン人)7年(6:1)、 ギデオン 40年(8:28)、 (アビメレク)3年(9:22)、 トラ 23年(10:2)、 ヤイル 22年(10:3)、 (ペリシテ人)18年(10:8)、 エフタ 6年(12:7)、 イブツァン 7年(12:9)、 エロン 10年、 アブドン 8年、 (ペリシテ人)40年(13:1)、 サムソン 20年(16:31) ・・・    より、  計410年。 ∴ エジプト考古学年代よりも、かなり古いことになる。  出エジプト: BC1416年? もっと古い??

  一方、 出エジプト〜ソロモンの神殿建設 480年(T列6:1 *)が文字通り正しいとすれば、この480年から、
  ・・・ 出エジプト〜定住までの期間 49年(ヨシュ14:7、10)、 (〜ヨシュア死までの期間は 不明)、 サウル即位 40年(使徒13:21)、 ダビデ即位 40年(Uサム5:4、T列2:11)、 ソロモン即位〜神殿建設開始 4年(T列6:1)
  を差し引いても、 347年以下になるはず。 したがって、一部、士師の働いた期間が重なっていると解釈されている。wiki・士師記


  * ユダヤ民族史・全6巻』を著したアブラハム・マラマットによると、この T列6:1の「480年」は文字通りに読むべきではないと解説されている。 40年×12代=480年ではなく、もっと現実的な 25年程度 ×12代=300年程度とすれば、ソロモン在位970年 + 300年 = BC1270年程になり、出エジプトは13世紀半ば(=エジプト考古学に基づく新しいほう)に起きたことになる。すると、その時のパロは、エジプト考古学とマッチングして、そのままメルエンプタハ(1212-1202?)になる。(第18王朝のアメンホテプ2世(1453-1419) ではない。)(参考


  (参考) 人名の神聖文字:  ヒエログリフの解読は、主に ロゼッタストーン(BC196 プトレマイオス、1799発見、 ヒエログリフ−デモティック(民衆文字)−ギリシャ文字で同じ内容を3段で記述。辞書の役割)による。

  



            次へ       1へ戻る       トップへ戻る